ログイン宴の熱気は、まだ会場のあちこちに澱(おり)のように残っていた。
急遽変更した立食形式のパーティー――「ピンチョス・スタイル」への転換は、私の予想を超えてうまくいったようだ。 去りゆく招待客たちが口にする「素晴らしい機転だ」「九龍家の新しい風を感じた」という賛辞が、さざ波のように耳に届く。 けれど、その言葉は私の胸を素通りして、どこか遠い場所へ消えていくようだった。 会場の出口では、湊が主催者としてゲスト一人ひとりを見送っている。 手入れの行き届いたスーツを隙なく着こなし、優雅に頭を下げるその横顔は、まさしく「若き帝王」のそれだ。自信に満ち、冷ややかなほどに美しい。 ついさっきまで私の隣にいた時の、あの少しだけ肩の力が抜けた、人間味のある湊はもうどこにもいなかった。 魔法が解けたみたいに、彼はふたたび雲の上の人へと戻ってしまったのだ。「……はぁ」 私は人目を盗むようにして、会場の隅にあるテラスへのガラス戸を押し開けた。 夜の湿り気を帯一族の呪縛から解放され、ただの飾りではない実力で道を切り拓いた実感が、冷たい風に乗って心地よく全身を駆け抜けていく。 しばらく歩いた後、交差点の近くで待機していたハイヤーへと乗り込む。 ドアが重い音を立てて閉まり、街の喧騒が遮断される。 その静かな空間で、湊は再び私の手を引き寄せ、掌にそっと額を押し当てた。「……お疲れ様。朱里」 その言葉は、何重もの誓約書よりも重く、深く、二人の絆を繋ぎ止めていた。 ◇ 翌朝。 冬の澄んだ空気を震わせるように、本邸の玄関にある新聞受けに重い束が落ちる音が響いた。 パジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、寝ぼけ眼をこすりながらリビングへ向かう。 テーブルの上には、湊がすでに淹れたコーヒーの深い香りが漂っていた。 ふと、昨夜から小刻みに震え続けていたスマートフォンの通知を思い出し、ロック画面をタップする。 画面が発する青白い光が、薄暗い部屋の空気を不自然に照らした。 ――視界に飛び込んできたのは、大手ニュースサイトのトップページ。 そこには、昨日、私たちが本社の会議室へ入る直前の、並んで歩く後ろ姿が、隠し撮りのような粗い画質でありながらもはっきりと映し出されていた。『九龍グループ新CEO、波乱の再建。その影に潜む「契約花嫁」の真実』『独占スクープ。茅野朱里氏と九龍湊氏の馴れ初めは、月額三百万円の偽装契約から始まった?』『元婚約者・拓也氏、元親友・美咲氏の驚愕証言。「彼女は昔から虚飾と打算の塊だった」』 スワイプしようとした指先が、一瞬にして感覚を失ったように冷え固まった。 スマートフォンの画面が、自身の浅い呼吸で白く曇っていく。 先程まで心地よかったコーヒーの香りが、突如として泥のような重たい匂いに変わったような気がした。「……朱里? どうした」 奥の部屋から湊が呼ぶ声が聞こえる。 手から滑り落ちそうになるスマートフォンを握り直す。 画面をスクロールすると、SNSのタイムラ
その確かな熱を感じながら、真っ直ぐに役員たちの顔を一人ひとり睨み据える。「……これが、九龍という名を再び誇り高いものにし、顧客の信頼を取り戻すための、唯一の道です」 数秒の、永遠にも感じられる濃密な沈黙。 やがて湊が、ゆっくりと革張りの椅子に腰を下ろした。 革が擦れる鈍い音が、静寂に終止符を打つ。「……今の提案、実現可能性の精査を各事業部に命じる。一週間以内に具体的な予算案と人員配置の草案を出せ。……反論がある者は、彼女以上の論理的かつ具体的な代案を持ってこい。なければ、この場で決議する」 湊の声は、地鳴りのような重みを持って広間に響き渡った。 役員たちが次々に頭を下げ、手元の資料に慌てて目を落とす衣擦れの音が、ざわざわと波のように広がっていく。 ◇「……ふう」 重厚な扉を抜け、会議室を出た瞬間、背筋を伝う冷たい汗の感触にようやく気づいた。 一気に全身から力が抜け、膝がわずかに震える。 廊下の大きな窓から差し込む冬の午後の光が、眩しすぎて思わず目を細めた。「見事だったな」 背後から、湊の大きな手が私の肩にそっと添えられる。 上質なシャツ越しに伝わってくるその手のひらの重みと体温が、空っぽになりかけていた心を満たしていく。「……怖かった。心臓が口から飛び出しそうだったわ。声、震えていなかったかしら」「そうは見えなかった。君が言葉を発し、具体的なデータを示すたびに、あの老害たちの顔から血の気が失われていくのは、見ていて非常に痛快だったよ」 湊は私の隣に並び立ち、共に窓の外を見つめた。 眼下には、ビル群の谷間を流れる車の列が、太陽の光を反射して銀色の川のように続いている。「九龍湊の婚約者としてではなく、茅野朱里という一人の経営パートナーとして、彼らは君の実力を認めた。……それは、僕にとっても最大の誇りだ」 湊の指が、肩から腕を伝い、私の指の間に
「お言葉ですが、西崎常務。現場の温度を軽んじている今の九龍こそが、顧客から見放されようとしている最大の原因です」 自分の声が、驚くほど冷静に、そして真っ直ぐに響いた。 役員たちの眉がピクリと跳ね上がり、薄笑いが一瞬にして消える。「現在、グループ全体のホテル稼働率は、龍一郎氏の逮捕報道以降、急激に落ち込んでいます。特に関東圏のフラッグシップホテルでは、ウェディングのキャンセルが相次いでいる。……皆さんは、そのキャンセル理由の文面を、ただの一文字でも精査しましたか?」 西崎常務が、脂汗の浮かんだ額を指先で拭いながら、苛立たしげに視線を逸らした。「……それは、ブランドイメージの一時的な失墜によるものだろう。時が経てば回復する」「違います。顧客が恐れているのは、イメージの低下ではなく、『誠実さの欠如』です。九龍のホテルで式を挙げることに憧れていた花嫁たちが、今、何に傷ついているか。……それは、自分たちが一生に一度の舞台を預ける場所が、内部抗争に明け暮れ、嘘で固められた人間たちによって運営されていたという事実そのものです」 手元のタブレットを操作し、背後の巨大なスクリーンへ映像を転送する。 そこには、昨夜までに独自に集計した、過去三ヶ月の顧客満足度の推移と、キャンセル後の流出先データ、そして顧客からの生々しいクレームの文面が分析図として表示されていた。「提案します。ホテルサービス、ブライダル事業、そして麗華さんが立ち上げたアパレル部門の三位一体となった『再生プロジェクト』です」 会議室の空気が、わずかに、しかし確実に動いた。「ホテルの宴会場をただ貸し出し、既存のプランを当てはめるだけの営業はもう古い。M&Aホールディングスが持つアパレル部門の独自ラインを、九龍の宿泊客限定のオーダーメイドサービスとして組み込みます。さらに、私が現場で培ってきたブライダルのノウハウを活かし、挙式前から後まで、顧客のライフスタイルに長期的に寄り添う『コンシェルジュ・サブスクリプション』を開始すべきです」「そんな手間のかかることを……。現場の
新調したばかりのチャコールグレーのジャケットに腕を通し、姿見の前で襟元を整える。 指先を滑らせるウールの生地は、驚くほど滑らかで、それでいて両肩に確かな重みを感じさせた。 九龍グループ本社ビルの最上階へと向かう専用エレベーター。密閉された箱の中は、微かな機械油の匂いと、無臭の消臭剤の香りが混ざり合っている。 液晶画面で明滅し、刻一刻と増えていく赤い数字を見つめながら、肺の奥までゆっくりと空気を吸い込み、細く長く吐き出す。 隣に立つ湊の、ぴしりと折り目のついたスラックスの裾が、視界の端で揺れた。 エレベーター特有の、わずかに内臓が浮き上がるような重力変化が収まり、ピン、という短い電子音が静寂を破る。「……準備はいいか」 低い、落ち着いた声。 視線を上げると、深い色の瞳がこちらを真っ直ぐに射抜いていた。「ええ。昨夜、麗華さんや詩織さんと何度もシミュレーションしたわ。頭の中には、現場のスタッフや顧客一人ひとりの顔が鮮明に浮かんでいるもの」 口角をわずかに上げると、湊の強張っていた頬の筋肉がふっと緩む。 重厚な金属の扉が左右に開くと、そこにはリノリウムの床を磨き上げた清掃用洗剤の匂いと、耳鳴りがするほどの張り詰めた沈黙が待ち構えていた。 ◇ 大会議室の中央に鎮座する、巨大なU字型のマホガニーのテーブル。 そこには、九龍グループの屋台骨を支える各部門のトップや、新体制で生き残った役員たちが、一分の隙もなく並んでいた。 扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、数十対の視線が一斉にこちらへと突き刺さる。 その多くには、隠しきれない困惑と、冷ややかな値踏みの色が混じっていた。 湊の婚約者。 世間を騒がせている逮捕劇の、いわば「おまけ」としてこの場に招かれただけの、ただの若い娘。 彼らの視線の温度と、椅子のきしむ音から、その本音が痛いほど伝わってくる。 湊は迷いのない足取りで上座へと向かい、用意された重厚な革張りの椅子を引くこともなく、立ったまま室内をゆっくりと見渡した。「…&hell
デスクの上のスタンドライトだけが、二人の手元を柔らかく照らし出していた。 残務処理を終え、パソコンをシャットダウンしようとマウスに手を伸ばした時。 背後から、上質なウールの感触と、大きな温もりが体をすっぽりと包み込んだ。 湊の腕が腰に回され、広い肩に背中を預ける形になる。 首筋に顔を埋められ、深く息を吸い込む音が聞こえた。「……少し、休みたくなった」 普段の隙のない姿からは想像もつかない、甘えるような弱音。「お疲れ様。本当に、よく頑張ってるわ」 回された腕に自分の手を重ね、その手の甲を親指でゆっくりと撫でる。 硬く強張っていた湊の筋肉が、少しずつ解れていくのがわかる。「……来週の温泉宿の手配、完璧に済んでいるぞ。誰の邪魔も入らない、露天風呂付きの離れだ」 首筋に唇が触れ、くすぐったい感覚が全身の毛穴を逆立てる。「ふふっ。九龍の当主様が、温泉の予約に全力を注いでいるなんて、役員たちが知ったら卒倒するわね」「構うものか。俺にとっての真の玉座は、君の隣にしかない」 湊の腕の力が強くなり、身体ごと反転させられる。 至近距離で交わる視線。 スタンドライトのオレンジ色の光が、湊の瞳の奥で小さく燃えているように見えた。「あの狭いアパートで、二人きりでこの会社を作った夜を、今でも鮮明に覚えている。……俺は、あの夜、君にすべてを救われたんだ」 湊の指先が、頬の輪郭をそっと、確かめるようになぞる。「九龍の当主になっても、俺の帰る場所はここだ。君と作り上げた、この『M&A』だ」「……私もよ、湊」 そっと背伸びをして、その温かい唇に自分の唇を重ねる。 ほんの一瞬の触れ合い。 しかし、離れようとした身体を引き寄せるように、湊の大きな手が後頭部をしっかりとホールドした。「……逃がさない」 低く掠れた声と共に、今度は深く、息を奪うような熱いキスが降
冷酷なCEOとしての顔が微かに覗く。 だが、組まれた腕が解かれ、その視線が真っ直ぐにこちらへと向けられた時、湊の瞳の奥にあったのは、計算でも合理性でもない、どこまでも純粋な熱だった。「……ここは、俺たちがゼロから立ち上げた場所だ。『Minato & Akari』。この名前を、九龍の巨大な影の中に塗り潰したくはない」 湊の声が、胸の奥を静かに、けれど強く震わせる。 あの古くて狭いアパートの一室。 九龍の権力も、財産も、すべてを失った湊が、小さなちゃぶ台の上でノートパソコンを開き、夜通し語り合った日々。 何もないところから、互いへの信頼だけを武器に立ち上げた、たった一つの会社。「それに、この会社は血の繋がりではなく、実力と信頼だけで結ばれた人間が集まる場所だ。九龍の古い因習とは、明確に切り離しておきたい」「ちょっと! M&Aがなくなるなんて最悪の噂、本気にして損したじゃないの!」 突然、オフィスの扉が荒々しく開かれ、大量の生地のサンプルを抱えた麗華がズカズカと足音を立てて入ってきた。 髪は無造作に束ねられ、指先にはミシンの針で刺したのか、いくつもの小さな絆創膏が貼られている。かつてのブランド志向の塊だった令嬢の姿はそこにはなく、服作りへの執念に燃える職人の顔があった。「私がせっかくアパレル部門のチーフデザイナーとして、寝る間も惜しんでこのブランドを軌道に乗せてきたのに。九龍の古臭い親父どもの傘下に入るなんて、絶対にごめんよ。私の美学に反するわ!」 山ほどの生地を空いているデスクにドサッと降ろし、両手を腰に当てて湊を睨みつける。 ツンケンした態度の裏側に透けて見える、この場所への強い愛着。「麗華さん、大丈夫よ。湊が、この会社をそのまま残すって決めてくれたから」 微笑みかけると、麗華はフンと鼻を鳴らし、少しだけバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。「……当然ね。私という天才デザイナーを手放すなんて、経営者として愚の骨頂よ。せいぜい、私に高い給料を払い続けるために、身を粉にして働きなさい」「相変わ
「ごきげんよう。……ふふ、そのドレス、素敵よ。湊様が選んだの? 地味なあなたには、少し荷が勝ちすぎる気もしますけれど」 麗華は扇子で口元を隠し、私の全身を舐めるように見下ろした。「でも、安心なさいな。今夜の主役は、あくまで九龍家と……私のブランドのお披露目ですもの。あなたはただ、背景の一部として大人しくしていればよろしくてよ」「……ええ。わきまえております」「物分かりが良くて助かるわ。……ああ、それと」 麗華が一歩、私
喉の奥がひりつく。まるで砂を噛んだあとのように乾いていて、つばを飲み込むことさえ億劫だった。 視界の端で、湊が私を見下ろしている。その瞳は逃げ場など最初からなかったのだと告げていた。「……わかった」 かすれた声を絞り出す。 とたん、湊の薄い唇が満足げに歪んだ。それは懐いていたペットを撫でるときのような、あるいは手のかかる玩具がついに思い通りに動いたときのような、傲慢で甘やかな笑みだった。「賢明だね。……歓迎するよ、僕の『パートナー』」 拘束していた腕が解かれ、
見覚えのない、上質な和紙の封筒だ。 拾い上げ、裏返す。 封蝋の代わりに貼られたシールの端に、見慣れた、しかし見たくもない筆跡で、小さくイニシャルが記されていた。『S.K』 志保・九龍(Shiho Kuryu)。 継母だ。 なぜ、志保からの封筒がここに? やはり、朱里は志保と繋がっていたのか。 背筋が凍りつく。指先が震えた。 中を見てしまえば、僕たちの関係が本当に終わってしまう気がした。だが、見ないわけにはいかない。 僕は意を決して、封を開けた。 中から滑り
難癖だ。言いがかりだ。 でも、その背後に誰がいるのかは、明白だった。 九龍剛造。 湊の叔父であり、あのパーティーで不気味な笑みを浮かべていた男。 彼が、手を回したのだ。 湊と私の仲が裂けたこのタイミングを見計らって、私を社会的に抹殺し、湊を孤立させるために。「……ふざけないで。そんなの、ただの言いがかりです!」「言いがかりかどうかは、裁判で争うかい? ……まあ、あんたらにそんな金も時間もないだろうがな」 男は合図をした。 他







