Masuk宴の熱気は、まだ会場のあちこちに澱(おり)のように残っていた。
急遽変更した立食形式のパーティー――「ピンチョス・スタイル」への転換は、私の予想を超えてうまくいったようだ。 去りゆく招待客たちが口にする「素晴らしい機転だ」「九龍家の新しい風を感じた」という賛辞が、さざ波のように耳に届く。 けれど、その言葉は私の胸を素通りして、どこか遠い場所へ消えていくようだった。 会場の出口では、湊が主催者としてゲスト一人ひとりを見送っている。 手入れの行き届いたスーツを隙なく着こなし、優雅に頭を下げるその横顔は、まさしく「若き帝王」のそれだ。自信に満ち、冷ややかなほどに美しい。 ついさっきまで私の隣にいた時の、あの少しだけ肩の力が抜けた、人間味のある湊はもうどこにもいなかった。 魔法が解けたみたいに、彼はふたたび雲の上の人へと戻ってしまったのだ。「……はぁ」 私は人目を盗むようにして、会場の隅にあるテラスへのガラス戸を押し開けた。 夜の湿り気を帯「……三日前の何気ない一言を覚えてて、わざわざ激務の合間に買いに行かせる九龍の当主。重い、重すぎるよ、愛が」「うるさいぞ、征司。君が持ってきたその砂糖の塊は、詩織さんにすべて献上しろ」「ええっ、俺の分は!?」 詩織が「ごちそうさま」と一言だけ告げて、箱ごとドーナツを自分のデスクへと引き寄せる。 湊はそのままデスクの横に立ち、手にした紙袋をそっと置いてから、モニターの画面を覗き込んできた。 肩が触れそうな距離。 冷たい冬の外気を吸い込んだ上質なウールの匂いと、湊自身の清潔な体温が混ざり合った香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。「……麗華の新作か。相変わらず、妥協のない仕事をしているな」「ええ。生地の仕入れから縫製まで、すべて彼女が工場に張り付いて確認しているの。前の彼女からは想像もつかないくらい、泥臭く働いているわ」 湊のネクタイが、身を乗り出した拍子にデスクの縁に触れ、微かな摩擦音を立てる。「無理しないで。来週の温泉旅行のために、スケジュールを極限まで詰め込んでいるんでしょう?」 見上げると、深い色の瞳が至近距離でこちらを見つめ返してきた。「……君との約束は、九龍のどんな決裁よりも最優先事項だ。それに、君の顔を見ないと、会議中の殺伐とした空気に当てられて窒息しそうになる」 大真面目な顔で発せられる甘い言葉に、心臓の奥がトクンと大きく跳ねる。「はいはい、ごちそうさま。そこ、神聖なオフィスで九龍家の秘事を繰り広げないでちょうだい」 詩織が、ドーナツを齧りながら冷ややかな視線を送ってくる。 湊は咳払いを一つして姿勢を正すと、持っていた革製のブリーフケースから一部のクリアファイルを取り出し、詩織のデスクへと差し出した。「本題に入ろう。今日の役員会議で出た、このM&Aホールディングスの吸収合併案だ」 その言葉に、オフィスの空気が微かに張り詰める。 征司が、ドーナツの粉を払う手を止めた。「……やっぱり、出たのか。老害連中か
キーボードのプラスチックを叩く乾いた音が、少し手狭なオフィスに軽快なリズムを刻んでいる。 エスプレッソマシンから立ち昇る深く焙煎されたコーヒーの香りと、暖房の効いた少し乾燥した空気が、ガラスのパーテーションで仕切られた空間を満たしていた。 デスクの上のモニターには、麗華が新しく立ち上げたアパレルブランドの新作カタログのデータが映し出されている。シルクの光沢や刺繍の細部を確認するため、マウスのホイールを回して画像を拡大していく。 九龍本社の、音を立てることすらためらわれるような重厚な静寂とは対極にある、活気と熱を帯びた空気。 ここ、M&Aホールディングスのオフィスには、血の繋がりや古い因習といったしがらみは一切存在しない。「差し入れのお通りだ! 詩織の機嫌を直すための最高級の生贄を持ってきたぞ!」 フロアの入り口から、両手に有名ベーカリーの紙箱を掲げた征司が、満面の笑みで飛び込んできた。 ダークスーツのボタンを外し、ネクタイを緩めたその姿は、相変わらずどこか隙があるようでいて、営業先では誰もが心を許してしまう特有の愛嬌を放っている。「誰の機嫌が悪いって?」 背後から、分厚い契約書の束を抱えた詩織が音もなく近づき、征司の背中をバインダーの角で軽く小突いた。「痛っ! ……いや、九龍本社のコンプライアンス改定と、こっちの法務チェックの二足のわらじで、疲労が溜まっているんじゃないかと心配しただけで……」「なら、無駄口を叩いてないでその箱を開けなさい。糖分が切れて頭が回らないのよ」 詩織は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げながら、デスクのパイプ椅子に腰を下ろした。 箱が開けられると、アイシングがたっぷりとかかったドーナツの強烈に甘い匂いが、コーヒーの香りを瞬時に上書きしていく。「朱里も食べるだろ? ほら、一番甘そうなやつ」 征司がナプキンで包んだドーナツを差し出してくる。 受け取ろうと手を伸ばした瞬間、背後のガラス扉が静かに開く音がした。「……業務時間中に、随分と和やかな雰囲
二人の掛け合いを見ていると、先程までの重苦しい空気が嘘のように風通しが良くなっていく。 湊も、肩を揉まれていた姿勢のまま、微かに肩を揺らして笑い声を漏らした。「詩織さんの言う通りだ。腐った根を取り除いた後の土壌改良は、一刻を争う。……書類は後で書斎に運んでおいてくれ。必ず今日中にサインする」「了解。じゃあ、私たちは本社の法務部に戻るわ。征司、行くわよ。運転手よろしく」「へいへい、女神様には逆らえませんって」 嵐のように現れ、嵐のように去っていく二人。 閉まった襖を見つめながら、湊が小さく息を吐いた。「……騒がしい連中だが、不思議と悪くない」「ええ。頼もしい家族が増えたわね」 揉みほぐしていた手を離すと、湊が振り返り、その大きな手で私の手首をそっと掴んだ。「……来週、少しだけ予定を空けておいてくれないか」 引き寄せられるままに身体が傾き、湊の広い肩口に額が触れる。 白檀の香りと、湊自身の清潔な体温が混じり合った匂いが鼻腔を満たした。「来週? 詩織があんなに書類の山を用意しているのに、休めるの?」「俺が数日不在にしたくらいで傾くような、柔な組織にはしていないさ。それに……」 湊の指先が、着物の袖口から覗く手首の脈打つ部分を、ゆっくりと円を描くようになぞる。 くすぐったいような、甘い痺れが腕を伝って登ってきた。「前に言っていただろう。……温泉に、行こうと」 その言葉に、ハッと顔を上げる。「本当? いつか行けたらいいな、くらいに思っていたのに」「俺は、君との約束を忘れたことは一度もない。……これからの長い戦いの前に、少しだけ、二人きりで息継ぎがしたいんだ」 湊の漆黒の瞳が、至近距離でこちらを覗き込んでいる。 先程まで百人の人間を震え上がらせていた冷徹な王の顔はどこにもなく、ただ真っ直ぐに体温を求めてくる、一人の不器用な青年の顔がそこにあった。
怯みそうになる背中を、湊の熱がしっかりと支えてくれている。 最前列で、志保が深く、満足そうに頷くのが見えた。「……新当主ならびに、奥様。我々一同、全身全霊をもってお支えいたします」 最前列に座っていた長老格の男が、絞り出すような声でそう言うと、両手をついて深く頭を下げた。 それを皮切りに、広間にいる百人全員が、波が引くように一斉に畳に額を擦り付けた。 衣擦れの音と、深く息を吐く音が幾重にも重なり合う。 香炉から立ち昇る沈香の匂いが、新しい時代の始まりを告げるように、静かに、そして力強く空間を満たしていった。 ◇「……ああ、肩が凝った」 継承の儀が終わり、親族との煩わしい挨拶回りをすべて終えて、本邸の奥にある控え室に戻った瞬間。 湊は襖が閉まるのを確認するや否や、袴の腰板のあたりをトントンと拳で叩きながら、畳の上にどさりとあぐらをかいた。 先程までの大木のような威厳はどこへやら、大きく息を吐き出して首をぐるぐると回している。「お疲れ様。本当に、立派だったわよ。大広間の空気を完全に支配していたもの」 隣に座り、固く結ばれた湊の肩から首筋にかけて、両手の親指でゆっくりと揉みほぐす。 紋付の厚い生地越しでも、岩のように強張った筋肉の硬さがダイレクトに伝わってきた。「痛っ……そこ、もう少し優しく頼む」「あら、新当主様はこれくらいの力加減で悲鳴を上げるの?」「当主とて生身の人間だ。……それに、君の指圧は容赦がない」 湊が苦笑しながら目を閉じた、その時。 スパーン!と、遠慮のない勢いで控え室の襖が開け放たれた。「いやぁ、兄貴! 最高に痺れたね! あの長老連中、完全に蛇に睨まれたカエルみたいになってたぜ!」 満面の笑みで飛び込んできたのは征司だった。ネクタイをすでに半分緩め、完全にリラックスした様子で畳の上にどっかりと座り込む。 直後、その後ろから呆れたようなため息と共に詩織が入ってきた。
全員の視線が、一斉にこちらへ向けられる。 かつて龍一郎の威光に怯え、掌を返して湊を九龍から追い出そうとした者たちの顔には、隠しきれない狼狽と、圧倒的な権力に対する畏怖が張り付いていた。 広間の最前列。 黒の留袖を隙なく着こなした志保が、静かに居住まいを正して座っている。 その斜め後ろには、普段の軽薄な態度を完全に封印し、ダークスーツをパリッと着こなした征司の姿があった。隣に座る詩織が、時折征司の姿勢を小声で注意しているのが、微かに動く唇の形から読み取れる。 湊は、広間の最奥、床の間の前に用意された一段高い座布団へと迷いなく歩みを進めた。 袴の裾が畳を擦る重い音だけが、百人の沈黙を支配している。 湊が上座に腰を下ろし、その斜め後ろにそっと座る。 張り詰めた空気の中、湊がゆっくりと見回した視線の先で、何人もの分家の人間が息を呑み、慌てて目を伏せる衣擦れの音がさざ波のように広がった。「……これより、九龍家当主の座を、私が継承する」 マイクを通さない、生身の湊の声。 それは決して声を荒らげているわけではないのに、広間の隅の柱までビリビリと震わせるような、圧倒的な重さと密度を持っていた。「先日の騒動については、すでに皆の知るところだろう。龍一郎とその息子は法の下で裁かれ、二度とこの敷居を跨ぐことはない」 ゴクリ、と。 誰かが生唾を飲み込む音が、不自然なほど大きく響いた。「九龍は長年、血という実体のないものに縋り、内部で足を引っ張り合うことで己の首を絞めてきた。権力に群がり、保身のために他者を売る。……そのような腐敗した時代は、華枝前当主の死と共に、完全に終わった」 湊の視線が、一人ひとりの顔を射抜くようにゆっくりと動く。「血の繋がりが、家族を証明するのではない。同じ志を持ち、互いの背中を預けられる信頼こそが、新たな九龍を強固なものにする。……私のやり方についてこられない者は、今この場で席を立ち、九龍の名を捨てて出て行っても構わない」 沈黙。 誰一人として、動こう
絹擦れの音が、静まり返った和室にひんやりと響き渡った。 固く締め上げられた帯の圧迫感が、みぞおちのあたりで呼吸を浅く制限している。着付け師の手によって最後に帯締めが結ばれ、背中にポンと軽い手が添えられた。「仕上がりました。とてもよくお似合いですよ」 鏡の前に立つ自身の姿は、淡い桜色の色無地に身を包み、髪を隙なく結い上げた見慣れないものだった。背筋が強制的に伸ばされ、足袋に包まれた足裏から、畳の冷たさがじわじわと這い上がってくる。 襖が静かに滑る音がして、振り返る。 そこに立っていたのは、九龍の家紋が染め抜かれた黒の紋付袴を纏った湊だった。 普段のスリーピーススーツ姿が放つ鋭利な冷たさとは違う、ずっしりとした大木の幹を思わせる重厚な威圧感。ただ部屋に足を踏み入れただけで、空気がピンと張り詰め、周囲の温度が数度下がったような錯覚に陥る。 湊は着付け師に短く目礼をして退出させると、ゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてきた。 白い足袋が畳を擦る、シュッ、シュッという音が耳に届く。 目の前で立ち止まった湊の、深く澄んだ色の瞳が、結い上げた髪から帯の結び目までを静かに滑り降りた。「……苦しくないか」 低く、胸の奥を直接震わせるような声。「少しだけ。でも、これくらいの方が背筋が伸びてちょうどいいわ」 そう答えると、湊の大きな手が伸びてきて、襟足のすぐ横、髪の結い目にそっと触れた。 先日、庭のレンガを積んだ時にできた指先のかすかなささくれが、肌に触れて微かな摩擦を生む。その不器用な感触が、なぜかたまらなく愛おしかった。「……綺麗だ」 ぽつりとこぼれ落ちた言葉に、顔の温度が一気に上がるのがわかる。「湊も。……すごく、堂々としてる。お父様が着ていたものなの?」「ああ。志保さんが、桐の箪笥の奥から出してきてくれた。丈を少し直しただけで、驚くほど身体に馴染む」 湊は自身の袖口に視線を落とし、それからゆっくりと息を吐いた。 微かに漂う、白檀の防虫香の匂い。それは、
あの絶対的な自信に満ちたCEOが、初めて見せる弱音。 その背中が、私の知っている彼よりもずっと小さく、脆く見えた。 志保はもはやパニックで役に立たない。総支配人もおろおろするばかり。 麗華は高みの見物を決め込んでいる。 誰も、動けない。 ――カッ、と。 私の腹の底で、熱い火種が爆ぜた。 冗談じゃない。 こんな、しょうもない悪意に負けてたまるか。 私の雇い主を、私の「婚約者」を、こんな形で笑い者になんてさせてたまるか! これは結婚式じゃない。 でも、状況は同
「事故だと……!? 警察には確認したのか!」「それが、現場周辺が大渋滞で、誰も近づけない状況らしく……連絡も途絶えてしまって……」 総支配人の声が裏返る。 事故? メインシェフが来ない? 食材も届かない? 血の気が引いた。 今夜のパーティーの目玉は、剛造も言っていた通り、三つ星シェフによる特別コース料理だ。 招待客の多くは、それを楽しみに来ている。 それが、「出せません」で済むはずがな
会場の喧騒の中、呆然と立ち尽くしている二つの影があった。 九龍剛造と、綾辻麗華だ。 剛造はグラスを持ったまま彫像のように固まり、麗華に至っては、能面のように表情を失っている。 彼女たちが描いた「九龍家の没落」というシナリオは、私の「宝石箱」によって、跡形もなく粉砕されたのだ。 ざまあみろ。 心の中で舌を出してやる。 その時。 人垣がさざ波のように割れ、一人の人物がこちらへ近づいてくるのが見えた。 コツ、コツ、と杖をつく音が、不思議なほど鮮明に響く。 九龍華枝だ。 小柄
「ごきげんよう。……ふふ、そのドレス、素敵よ。湊様が選んだの? 地味なあなたには、少し荷が勝ちすぎる気もしますけれど」 麗華は扇子で口元を隠し、私の全身を舐めるように見下ろした。「でも、安心なさいな。今夜の主役は、あくまで九龍家と……私のブランドのお披露目ですもの。あなたはただ、背景の一部として大人しくしていればよろしくてよ」「……ええ。わきまえております」「物分かりが良くて助かるわ。……ああ、それと」 麗華が一歩、私







